今日は先日の記事の続きを書きましょう。オンライン家庭教師とは全く関係ないですが、、興味のある方は読んでください。
非常に日本的な問題をはらんでいると思うので、オートバイを例に話しましょう。ぼくは高校に入って、オートバイの免許が取れる年齢になると、すぐに取りに行きました。五月生まれだから、高校三年の夏休み前には自動車の免許も取りました。
当時の母校には、免許を取ってはいけないという校則はなく、取得した者は学校に報告すればよかった。学校では定期的に交通安全指導をする日がありました。たぶん土曜日だったと記憶しています。近隣の学校から免許を取った生徒たちが集まり、そこへ警察の交通安全指導の人がやってきて、安全運転をするための講習をしてくれました。免許をもっているという報告だけでなく、学校側が指導体制を整えてくれたのです。これは当たり前のことだと思います。
オンライン家庭教師になった後も
ずっと後、オンライン家庭教師の講師になってから、母校で講演会があり、校長先生と話す機会がありました。ぼくは、「今でも免許の取得は許可されていますか」と訊いてみました。結果は残念ながら、校則で禁止。バイクや車は乗っても買ってもいけない、ということになっていました。
母校に限った話ではなく、現在、日本のほとんどの高校では校則でオートバイが禁止されています。「三ナイ運動」というのも聞きました。「免許を取らない、買わない、乗らない」だといいます。法律では一六歳になれば、バイクの免許は取っていいことになっているにもかかわらず、校則で禁止されているわけです。
これは絶対におかしなことだと思います。そもそも運転免許は校則で禁止すべきことではありません。「オートバイ通学禁止」というならまだわかります。それは学校と関連のあることだからです。しかし、免許を取る、取らないは、学校ではなく純粋に家庭の問題です。禁止するなら、家庭における責任者の名において禁止すべきです。
この取り違えの中に、父性と母性のアンバランス、日本社会における著しい父性の欠落が見て取れます。本来は父親が自分の子どもの成長具合や気性をよく見て、「この子はまだまだ未熟だ。自転車の交通ルールものみ込めていないのだから、バイクはなお難しいだろう。安全運転ができそうもないから、免許はもうしばらく取らせないいか方がいい」と判、バイクを禁止すればいい。
逆に「お前か信頼できる。普段から注意深いし、ルールもきちんと守る。免許を取っても安心だ」となれば、親の責任において取らせればいい。そして、親が培ってきた交通マナーやライディングテクニックをしっかり叩き込んでやればいいのです。
ナイフの問題もそうです。扱い方、しまい方、場合によっては人に危害を加える凶器となることまで、ナイフの使い方を教えるのは父親の役割です。ところが日本のお父さんはこれまで家庭に背を向け続けてきました。何も子どもに伝達しようとしてこなかった。そうすると、ナイフやバイクは「危険なシロモノ」として母親の手に余ります。
お母さんの手に余るとどうなるか。取り上げるしかありません。けれども、お母さんには強制力がないから、学校にそれを押し付けています。家庭でやるべきことを父親が放棄し、母親の手には余り、結局すべてを取り上げざるをえなくなった。学校はそれを代弁しているにすぎません。
リスクは早めに体験する
これらのことは、今の日本にあって象徴的です。いずれ子どもは交通社会の中で暮らすことになります。どんな形であれ、交通社会に組み込まれていくのです。となれば、早い時期に安全運転につながるマナーやテクニックを教えるのは大切なことです。一六歳で免許を取るのは危ないという人もいるけれど、本当に危険なのは年齢と関係なく、免許を取って最初の一年です。一八歳だろうが、二五歳だろうが、若葉マークの時期は危険が多い。
だったら、なるべく早く体験させ、身をもって危険性を理解させる方がいいのです。交通安全のイロハは、子どもが巣立つ前、親が監督しているうちに親の責任できちんと身につけさせるのが理想的だし、本来の姿でしょう。そして、その役割は大方の場合、父親が負うべきなのです。
もし、子どもがバイクの免許を取って事故を起こしたら、非常に辛い。しかし、事故の原因が未熟な運転技術にあるとしたら、その責任は家庭にあります。「免許を取ってもいい」と許可したにもかかわらず、安全なライディング・テクニックを教えなかった人間が責任を取るべきです。責任を取りたくないから、校則で禁止してしまえ、というのでは責任の所在が曖昧になります。これも父性と母性のアンバランスからくる弊害です。
夫が家のことはすべて妻に任せたと子育てを放棄していては、父性と母性のバランスはますますひどくなります。ただでさえ日本社会は、だれもが安全で長生きすることを最優先しようとする社会です。子どもはいつまでたっても、危険なにおいがするものから遠ざけられ、無菌状態に置かれます。
安全で狭い世界ばかりにいては、危険に対する想像力が育たないだけでなく、自立心も冒険心も培われず、確かな自我の形成ができにくくなります。その結果、世の中に未熟なまま放り出されてしまうことになるのです。