よく昔の日本の男は強かったとか、最近は父親が弱くなったという話がされます。これもまったく間違っていることで、過去の日本で男性優位だったのは、男性が強かったからではなく、女性が男性を甘やかしていたからです。
母性が強い社会では、男を、子どものうちは母親、大人になってからは妻があれこれと面倒をみてくれます。何事においても女性が、「ぼくちゃん、何もしなくていいからね」と男性の世話を焼く。男はいつまでも半人前で、女に頼らなければ生きていけません。
こんな社会から本当に強い男が現れるはずがありません。かつての「家父長制」にしても、日本の男は家族に対して何の責任も果たしていませんでした。父系の家長が家長権に基づいて構成員を統率、服従させ、構成員がその男を「父親」と呼んでいたにすぎないのです。実態は男たちが、ただ父親だからという理由でふんぞり返り、威張っていただけです。
ぼくは、日本に父性は存在しなかったとすら思っています。父性を形作る「男らしさ」さえ、この国の男たちはもてなかったというのが持説です。それでも、半人前の男を女が許し、支えてくれていたから家庭はなんとかまとまっていた。しかし、弱い男女がもたれ合い、寄り添うような社会ができてしまいました。
本当に強い男性は女性に甘えない?
ぼくの子育てに対する取り組み方も、そのあたりと関係があります。ぼくは自分でもマッチョだと自負しています。妻の最初の妊娠がわかって、「いよいよ自分も父親になるんだ」と自覚したとき、自ら決心し、実行したのは身体を鍛えることでした。父親として、生まれてくる子どものために何をしてやればいいのか、何ができるのか、それはまず、いざというときに身体を張って子どもたちを守ってやれるだけの肉体をつくることだと思ったのです。
「強いお父さんになれ」などと言うと、時代遅れのように聞こえるかもしれません。威張ってばかりで何もしようとしない男をイメージする人も多いでしょう。
しかし、ここで言いたいのはそういうことではなく、むしろ丸っきり反対のことです。マッチョを突き詰めれば、フェミニズムになります。本当に強いお父さんというのは、しっかりと自立し、他人を思いやることができ、いざというとき、頼りになる存在のことです。
ぼくはオンライン家庭教師の講師として働きながら妻と一緒に子育てをし、炊事、洗濯などもこなしてきました。そのため、「兼業主夫作家」とか「講師最強の子育てパパ」と称されたりもしました。若い頃憧れていたのは、太宰治や坂口安吾などいわゆる無頼派の作家たちだったから、われながら子育てにかかわるようになるなんて、まったく想像していませんでした。素敵な女性たちにモテモテだった太宰のようになりたくて作家になったのに、「なぜ?」という気分です。
オンライン家庭教師として働く私が思う精神的マッチョ
しかし、精神的にも肉体的にもマッチョであろうとするならば、仕事で疲れている妻に家事をやらせられません。身の回りのことぐらい自分でできないとダメだし、必要なら家事もできなければいけないと思ってきました。
共働きの夫婦がいて、夜、同じ時間に帰宅したとしましょう。仕事から帰ってくるなり「あー疲れた」と言って妻に食事を作らせる夫は、弱いとしか言いようがありません。疲れているのは妻も同じです。本当に強い男なら、そこで甘えたりはしないものです。
誤解してほしくないのですが、ぼくは自分が生まれ育った国や、その国民性を悪く言うつもりはありません。日本人は柔軟性に富み、礼儀正しく繊細な感受性をもっている。けれども、臆病で自立心に乏しく、はっきり言えば、勇気がない。
社会の母性・父性を測定する機械がもしあるとすれば、日本社会はメーターの針が母性に振り切れています。このため社会の性格がかなり決定され、世代が意向しても共同体の中に変化が起きにくくなっています。母性過多であるため、民族として繁栄していくための選択肢がおそろしく狭いのです。