死とは何か。どの時点で人は死んだと見なすべきなのか。フィジカルに見れば、死はある長さをもった過渡的な現象です。生命の機能が完全に停止するのは、すべての細胞が死んだとき。これを細胞死と言います。つまり生物学的な死が細胞死です。

 

オンライン家庭教師 生物学 細胞死

通常は心臓の停止をもって死亡と判断するのではありませんか。

それは心臓死です。われわれは社会を形成する上で、過渡的な現象である死にどこかで線を引かなければなりません。そこで、心臓停止をもって死と決めた。心臓死と細胞死を分けたのです。

よくお葬式の前に遺体のヒゲを刺ったりするのは、心臓が止まってからも、一部の細胞が生き続けている証拠です。また、人間は心臓が止まってからも蘇生することがあります。ある知人が先年、心臓発作を起こして、一時的に心停止の状態になりました。幸い応急処置がよかったのか、二時間後には心臓が動き出し、回復することができました。現在では心臓ペースメーカーを使用していますが、ぴんぴんしています。心臓は一度止まってからも動き出すことはあるということです。

このように考えていくと、死を定義するためには、ポイント・オブ・ノーリターンはいつか、どの時点で人間は蘇生できなくなるのかを見極める必要があることがわかってくるでしょう。言い換えれば、あるポイントを過ぎれば死が不可逆になるとしたら、そのポイントを死と定義するのが妥当なのです。

受験勉強とは関係ないかもしれませんが、オンライン家庭教師である私はこういった疑問がとても気になります。死とは人間にとって大きなテーマだなと思うのです。

 

オンライン家庭教師 脳死 定義

そこで脳死が出てくるわけですね。

その通りです。よく脳死と植物状態を混同している人がいますが、この二つは根本的に違います。脳死は脳全体の機能が失われた状態で、呼吸や循環機能の調節や意識の伝達など生きていくために必要な働きを司る脳幹も機能しなくなります。そのため、自力で呼吸できず、薬剤や人工呼吸器などによって、しばらくは心臓を動かせますが、およそ一週間で心臓が停止します。脳死になれば死は不可逆で、生き返ることはもうありません。

これに対し、植物状態は、脳幹の機能が残っていて、自力で呼吸できる場合が多く、回復する可能性もあります。

脳死という概念はそう古くありません。なぜ、脳死が問題になったかと言えば、医療技術が進歩したからです。人工呼吸器などが発達し、事故や脳卒中などで脳死になった人の心臓を動かしておくことが可能になりました。と言っても、人工呼吸器を装着していても、やがて心臓は停止してしまう。そうであれば、脳死の間に臓器を摘出して、必要とする他の患者に移植できないかという考え方が医学界から出てきました。

心臓などの臓器移植は心停止まで待っていたら遅すぎる。そこで一五歳以上でドナーになる意思を表示している人であれば、脳死を死と認めるという臓器移植法が一九九七年に施行されたわけです。

ここで考えなくてはならのは、より多くの人間が幸福になるための結論をどうやって導くかです。すでに述べてきたように脳死は不可逆的です。脳死状態になった人が回復することは決してない。また、日本の脳死判定は非常に厳格で、二人以上の医師が六時間おいて二回判定します。日本の病院で脳死と判断されたら、一〇〇%脳死だと見ていいと思います。

本来、人の死のような大切な問題にグレーゾーンがあってはなりません。脳死になった人の臓器を難病に苦しんでいる人に移植し、役立てることができるのならば、社会としてきちんと脳死は死と決めるべきでしょう。本人に臓器移植の意思があるかどうかを条件にするのではなく、法律ですべての脳死を死と定め、最大多数の最大幸福を追求した方がいいのです。

社会のルールは論理的に作っていかなくてはいけません。ここが勉強する意味、理解力・想像力・表現力と大いに関係してくるのですが、脳死問題を考える上では、まず脳死の不可逆性について理解すること。脳死を死と認めることで社会に還元される利益を想像し、情緒を差し挟まずに論理的に結論を表現していく必要があります。

脳死と植物状態を混同する、などというのは論外です。あやふやな知識のまま、議論をしても、結論は曖昧になるだけで、そういう人とは議論する価値もない。しっかりと理解していて、なおかつ独自の判断によって「脳死は死と認めない」をもつ人とは、議論する価値があります。

勉強して、広い知識を得て、それらを自分の中で消化できる能力を身につけた人でなければ、きちんとした意見は出せません。きちんとした意見のぶつかり合いの中でこそ、社会をよりよくしていくような選択が可能になっていくのです。

おそらく、身内が脳死と判断された人は、医師から死亡宣告を受けても納得がいかないと思います。たとえ、あと一週間で心臓が止まると言われても、「じゃあ一週間生きさせてくれ」と言いたくなる気持ちはわかります。

しかし、患者の家族の感情と法律や社会通念は明確に分ける必要があります。社会としては脳死イコール死と線を引き、個々の感情には現場で対処すればいいのです。どうしても家族が移植を望まないのであれば、移植するわけにはいかないでしょう。ただし、脳死の時点で死亡という判断だけはすべきです。「死んだと思いたくない」いという情緒を、社会的な通念としての死の判定に持ち込んではならないのです。

 

オンライン家庭教師 論理 GM作物

情緒と論理のどちらをとるかというテーマは、最近の日本人の関心事のようです。

社会のルールを決めるときは、情緒を差し挟むのではなく、論理にのっとって結論を引き出していくべきです。合理的に隙がないように考え、社会ににとってよりよい結論は何かを視野に入れて、明確に答えを出さなければなりません。現場で、それぞれの問題に対処するとき、情緒を差し挟めばいいのです。

この「よりよい」という点が重要で、ベストな選択というのはなかなか難しい。だけど、論理に立てば、なるべくよい解を得ることはできる。ベストな解答でなくても、よりよい答えを導き出せる可能性が増します。オンライン家庭教師で働く講師としてより良い回答に生徒を導くことも大切なことだと考えています。

論理ではなく、情緒が人々を支配するようになると、世の中は混乱します。たとえば、遺伝子組み換え(GM)作物について漠然としか知らないのに、「なんと体に悪そうな気がする」と避けたがる消費者はかなりいます。

GM技術には農薬の使用を減らせる、労働・生産コストが削減されるといったメリットもある。そういうメリットと本当に環境に影響はないのかといったことを考えて、GM作物を使った食品は買わないと言うならまだしも、大部分の消費者はただ風説に惑わされ、マスコミの論調に振り回されているだけのようです。

ここでも問われるのは、理解力・想像力・表現力です。GM技術とは一体何であるかをできるだけ正確に理解し、農業の実態や世界の食糧問題、人類の将来、生命倫理の問題にも思いを馳せて、この技術を使うべきか、使わないでおくべきかを考え、意見を述べる。

さまざまな人が理解力・想像力・表現力という思考の回路を通じて出された意見を戦わせなければ、次世代のためのよりよい選択は残せません。大切なことは、明晰に、論理的に、分析的に考えることであって、情緒に流されることではないのです。

 

前回の記事はコチラ→【生命・言語の仕組みを知るには源まで遡り考えなければならない