勉強法・思考法

昔の日本の「特攻」について考える

オンライン家庭教師 自爆テロ イスラム

日本の特攻は、近年のイスラム原理主義者の自爆テロの原型とも言われますが、これについてはどう考えますか。

似て非なるものだと思います。みなさんが学校や、家庭教師の先生に教わった歴史の中には「特攻」というものがあります。
日本の特攻は正規軍が正規の作戦として採用しました。アメリカを相手に戦いを挑むなんて無茶なことをしでかし、負け戦の中で日本人はパニックを起こした。その結果、訳がわからないまま、およそ不合理の極致としか考えられない、若者をむざむざ死なせるような恥ずかしい作戦を遂行しました。

現代のイラクやパレスチナなどで起きている自爆テロは、原理主義者たちの宗教心に根差しています。爆弾を背負って突っ込めば、天国に行けると指導者に言われ、それを信じて自爆するのであって、日本人が雰囲気にのみ込まれて特攻に志願したのとは、意識がかなり違っています。

それと、イスラムの自爆テロには現世に対する強い否定、自ら死ぬことでしか晴らせない敵への激しい恨みが込められているような気がします。現世の不幸を死によってしか越えられないと彼らが信じ続ける限り、自爆テロは続くかもしれません。

さて、勉強する意味をいろいろと話してきましたが、言いたいことは、さまざまな問題について一人一人が自分で考え、周囲の雰囲気や情緒に流されずに行動しようということに尽きます。オンライン家庭教師でも自主的に勉強する生徒を育てることを目標としています。それが人気の理由です。

作家としては、物事を明晰に分析的に考えようと心がけてきました。と言っても文学表現には曖味さも必要だから、表現する段階では情緒も付け加えてきましたが、思考の段階では、自分が得てきた知識を有効に活用し、なるべく自分独自の発想を論理的に組み立ててきたつもりです。

生命の起源や脳死の問題にふれたのは、ぼくならこう考えるという具体的な思考の例であり、だれもが同じ意見をもつ必要はまったくありません。ただし、物事を合理的かつクリアに考える重要性については、重ねて指摘しておきたいと思います。

日本人はもっと世界に通用する論理を身につけるべきですし、理解力・想像力・表現力はそのための基礎となる。勉強でこの三つの力をしっかり養い、さまざまな問題を合理的、論理的に判断する人が増えていけば、社会の幸福度がよりアップする確率が上がると信じています。

 

オンライン家庭教師 国語 勉強法

では、リテラシー能力を高め、社会をよりよくするような勉強法はどうすれば身につくのでしょうか。

まず、国語から考えてみましょうか。国語教育は勉強の中で最も大切であり、いくら徹底しても足りないぐらいだと思います。小・中学校で読み書きの基本をしっかり押さえるのは当然のこと。もっと力を入れるべきなのが作文教育でしょう。

アメリカの学校では、生徒にレポートを頻繁に課します。課題を与えたら、必ずじっくり考えさせて、自分の意見を表現させようとします。それは、子どもたちの理解力・想像力・表現力の向上を図るためにほかなりません。読ませて、考えさせて、書かせる、そして書いたものを教師が添削する。これを学習の中心にすえ、何度も繰り返します。

日本の小学校でも子どもによく作文を書かせます。しかし、そのやり方はかなりおかしなものです。

作文教育の根幹は、与えられた素材を理解し、自分はそれについてどう思うかという意見をもち、文章で表現することです。しかし、日本の子どもたちの作文には「独自の言いたいこと」がありません。先にも述べたように、ぼくは塾講師や家庭教師を経験したことがあり、作文にも目を通す機会がありました。それでわかったのですが、子どもたちは常に大人の顔色をうかがっています。作文を通じて、各自が意見を明確に表明しようとするのではなく、なんとなく世間が望んでいるような雰囲気に合わせたものを書こうとする。

教師は教師で、無難で体裁のよく整った文、要するにお利口さんの文章をよい作文、と見なし、評価する。これでは自分の意見を大胆にはっきり言えるような子どもが育ちません。

たとえば、ぼくはこんなやり方で子どもたちの作文に目を通し、添削していました。まず一回目は、こちらからは何も言わずに作文を書かせてみます。子どもは焦点のぼやけた、とりとめのない文章を書くものです。与えられたテーマに対して、何を言いたいのかが、読む側にはさっぱり伝わってこない。子どもたち自信の意見がまとまってないのだから、これは当たり前です。

そんなとき、ぼくは「自分で何を書きたいかわかってないだろう?」と書き直しを命じました。

二回目の文は、一回目よりもクリアなものができ上がります。何か言いたいこと、書きたいことがあるのだな、ということは文章から伝わってくるのです。しかし、この場合の「言いたいこと」は大人たちが喜びそうなこと、世間一般の意見、世論に合わせたような内容にすぎません。そこで、ぼくはオンライン家庭教師の生徒に「君自身の意見をもうちょっと強くもってごらん」とアドバイスしました。

ここまでやれば、子どもはテーマに対して自分がどう思うのかを真剣に考え始めます。三回目の文章にはかなりしっかりした意見が出てきます。でも、まだ足りない。それは文章が平凡だからです。そんなとき、ぼくは「君ならではの特色がまったくこの作文には出ていない」と指摘しました。そう言われると、子どもたちはしばらく考え込んでいました。ここでようやく具体的なアドバイスです。

「最初の一行を書き換えろ。一行目を君らしい個性のある文にしてごらん」

作文というのは書き出しが勝負です。最初の一行を変えれば、そこに特色が表れ、勢いに乗って全体がガラガラと変わっていきます。あとは仕上げとして論理展開を少し整理すれば終わり。一つの作文が仕上がるまで、五回ぐらい書き直しをさせていました。

今でもたぶんそうでしょうが、ぼくたちが子どもの頃、よく読書感想文なるものを書かされました。子どもにとってこれは大変な苦痛で、オンライン家庭教師や学校で「夏休みの宿題に出されたりすると、八月の終わりにはずいぶん苦労させられます。結局あやふやなものしか書けなくて、作文が嫌いになる子どもはかなりいるのではないかと思われます。

だいたい日本の小説には、力強いテーマといったものがほとんどありません。日本文学の過去から近現代の私小説に至る流れの中心を占めるのは、人間の心を含めた風景の描写であり、語る主体のテーマや考え方は含まれません。

作家は情緒や雰囲気を切り取り、写実して見せる手法をとっているにすぎず、そこには屹立した個人の確固たる考えがない。作家の自我は出てきません。だから先生に「この作品を読んで、そのテーマについて書け」と命じられて、子どもたちが園ってしまうのは当然なのです。

せめて読書感想文を実のあるものにするためには、教師による添削が欠かせないでしょう。子どもたちが提出した作文に、漫然と花丸や二重丸をつけるだけではダメなのです。ぼくが子どもたちにしたように、自分の意見をもたせ、個性のある書き方で論理を展開させるトレーニングをすべきだと思います。でなければ、たとえ宿題が完成したところで、何も身につきません。

 

オンライン家庭教師 作文 読書感想文

教える側の力量も問われそうです。

父親であり、小説家であるという立場から娘たちの作文も見てきましたが、普通のお父さんにそんな暇はないでしょうし、専門家でないと添削はそう簡単にはできません。当然その役割は学校の教師が担わなくてはなりませんが、それには能力と覚悟が必要となります。国語教師には相当優れた人材が求められるということです。

次に英語について話しましょう。さっき学校やオンライン家庭教師などで学ぶべきことは、「世の中に出て役に立つ知識ではない」と話しましたが、せっかく英語を学ぶからには英会話ができた方がやはり便利です。しかし、今さら指摘するまでもなく、日本人は英会話がとても苦手です。一体なぜ、そんなふうになってしまうのかを考えてみたいと思います。

ぼくは仕事柄、海外でいろいろな人と出会い、話す機会があります。その中にはかなり日本語が流暢な外国人もいて、会う度にとても驚かされます。先目カナダで知り合った女性も、カタコトながら立派な日本語を話せました。

「どこで日本語を習ったの?」と尋ねると、「大学の第二外国語で」という答えが返ってきました。実際に勉強したのは「二、三年ぐらい」と言いますから、びっくりです。彼女の日本語は、とても二、三年で身につけたとは思えないぐらいしっかりしたレベルに達していました。

よく西洋人が日本語を学ぶのは困難と言われますが、本当にそうでしょうか。『らせん』をドイツ語に翻訳したドイツ人は、ビクトリアという名の若い女性で、ときときメールをくれるのですが、彼女の書く日本語は完壁と言っていい。一字一句、「てにをは」に至るまで間違っていません。

ビクトリアは「これまで日本に一番長く住んでいたのは半年ぐらい」とさらりと言ってのけます。ドイツの大学で日本語を学んだ後、来日。短期の滞在と帰国を繰り返しながら、日本語の会話も文章もパーフェクトにこなせるようになりました。

もちろん彼女が頭のいい、優秀な翻訳家だということは、付き合っていれば伝わってきます。しかし、あれほどの語学力を見せつけられると、オンライン家庭教師の講師であるこちらがいささか圧倒されてしまう。なにしろ多くの日本人は中学・高校で六年間、さらに大学でも英語を学ぶのに、英会話となるとさっばりという人があまりにも多いのです。これはもう民族の宿痾とでも呼ぶべきものかもしれません。

 

前回の記事はコチラ→【将来人間のクローンが出来たらどうなる?

 

将来、人間のクローンができる?家庭教師が考えるクローン時代

ここ最近気がかりなのは、クローン技術についてです。いつか小説に書かなくてはいけないと思って準備しているのですが、この問題をどう取り扱うかは相当難しいのです。オンラインで家庭教師を行なっている時代でもクローン技術はまだまだ発展途上。これからのテーマです。

 

オンライン家庭教師 クローン技術 人間

将来、人間のクローンができたらどうなるかといったような話ですか。

ハリウッドのくだらない映画にクローン人間を利用した兵士なんかが出てくるけれど、ああいう映画で間違ったイメージが広まってしまうのは困りものです。クローン技術でわれわれが問われるのは、人間はこの技術とどう向き合うべきか、医療の進歩と倫理観の折り合いをどうつけるのかということです。

日本では二〇〇一年にクローン技術規制法が施行され、クローン人間の誕生につながるヒトクローン胚の研究がすでに禁止されています。しかし、将来もっと技術が進んで、ある人の体細胞から、その人と遺伝的にまったく同じ人間を作るということはありえないでしょうか。

それがたとえば、難病の子どもを救いたいという親の一念からだったとしたら、その行為は生命倫理と社会秩序には反していたとしても、なんとか病気を克服したいという個人の尊厳、子どもを守りたいという親の思いを尊重したことにはならないでしょうか。

クローン人間を作れる時代がいずれやってきます。クローン技術を用いれば、難病の治療法が見つかるかもしれず、その方面の研究はどんどん進んでいくでしょう。にもかかわらず、われわれの社会はクローン技術ときちんと向き合っていません。技術を規制するといっても、現行の法律は肝心な部分があやふやなままで、議論が尽くされているとは到底言えません。

口では生命の尊厳と言い、倫理や社会的秩序が安易に語られますが、巷にはこびっているのは論理ではなく、やはり情緒であり、ムードなのです。是が非でもだ命を救いたいという願望と、さしたる信念もなく雰囲気に流されて持ち出された倫理が正面からぶつかったとき、議論は途端にかみ合わなくなるに違いありません。

 

オンライン家庭教師 日本 論理的思考

論理的思考のなさが社会を混乱に陥れるということですか。

日本人が論理的でないのは、今に始まったことではありません。合理的な判断ができなかったがために、過去にもいくつか悲劇を引き起こしています。

太平洋戦争末期の特攻作戦なんかも不合理の極致でした。国の存亡を考えれば、最も大切にしなくてはいけないのが若者たちなのに、上の世代の人たちが特攻を考え、若者の命を切り捨てていきました。若い世代を生かし、次代を担ってもらおうと願う発想が日本にはありませんでした。次世代への無関心のなせるわざです。

しかも「神風特攻隊」の命名は、鎌倉時代に元冠があった折、風の向きが日本に有利に働き、元に侵攻されずにすんだという「神風」に由来します。名前の付け方からして神頼みの姿勢が見受けられるのは情けない限りです。

ぼくは特攻隊をテーマにした小説にも取り組もうと、特攻の生き残りの人たちにたくさんインタビューしたことがあります。よく特攻隊員は死を覚悟して攻撃命令を待っていたと言われますが、彼らの話を聞けば、本音と建前がいかに違っていたかがわかります。

飛行機で敵艦に体当たりなどという不合理な死に方は、本当はだれ一人望んでいませんでした。明らかに無駄死にですし、特攻隊員として出撃した人たちはその不合理をわかっていながら、命令に従ったのです。

対するアメリカは、合理性と論理性の国です。日本軍の航空兵力に対して新型兵器で対応しました。それがVT(近接)信管です。軍艦から撃つ砲弾の信管にレーダーを組み込み、目標物に命中しなくても、一定の範囲内に目標物が近づけば、起爆する能力をもたせました。

VT信管は日本が特攻作戦を始めた直後に実用化され、特攻機の撃墜にも非常に威力を発揮しました。アメリカ海軍にVT信管を使われたら、特攻の効果は圧倒的に低くなる。特攻が不合理だということぐらい、日本の軍部も気付いていたはずなのです。

実のところ、「神風特別攻撃隊の生みの親」と言われる大西滝治郎海軍中将が最初に特攻を発案したとき、軍内部でも反対する声はありました。しかし、いったん特攻が作戦として採用され、遂行と決まると、だれもが合理的な判断力を失い、反対できない雰囲気ができていきます。そうした集団の雰囲気は末端まで覆い、全員が情緒に包まれたのです。

多くの特攻隊員たちは、この作戦は間違っていると感じつつ、全体が作る雰囲気に取り込まれていったのだと思います。内心では馬鹿馬鹿しいとわかっていながら、いざ「明日の特攻攻撃を希望する者は一歩前へ」と上官に言われれば、場の雰囲気をかぎとって一歩前に出るしかなかった。

ここに特攻の悲劇があり、合理性を失った集団の不幸があります。本人が価値や意味を見出して死ぬならば、まだ救いがある。だけど、無駄死にと知っていながら、命令に従わなくてはならない。二律背反を抱えながらの死はあまりにも悲しいものです。

何人かの優れた特攻隊員は、特攻攻撃に「あえて愚かな戦法に従って犠牲になることで後世の日本に反省をうながす」という意味を見出し、従容として死地に赴きました。特攻隊員の死を無駄にしないためにも、戦後のわれわれには、彼らの声を聞く義務があります。オンライン家庭教師という便利なシステムが生まれるほど成長し平和な今だからこそ声に耳を傾けたいですね。

ただいたずらに、「平和、平和」「戦争反対」と叫ぶことではありません。避けられるべき不幸を生んだシステムが、形を変えて戦後の日本に潜んでいるとしたら、それを炙り出して分析し、変えるべきところを変えていくのが、過去の間違いを反省して克服するということではないでしょうか。

 

オンライン家庭教師 特攻 英雄

特攻を英雄的行動ととらえるのは間違いということですか。

アメリカ映画にはなぜか特攻によく似た作戦のシーンがよく登場します。『インデペンデンス・デイ』では、宇宙人来襲というとんでもない事態が起き、戦闘機で突っ込んでいく人たちが描かれます。人気映画の『アルマゲドン』では、地球に衝突しようとする小惑星に主人公たちが送り込まれ、核爆弾を埋め込もうとする。『ディープ・インパクト』でも、地球に接近する巨大彗星に向かって宇宙飛行士たちが核ミサイルと共に特攻を仕掛けます。

あくまでも映画の話ですが、興味深いのはアメリカ人が若者を犠牲にしないことです。特攻作戦を実行しても、突っ込んでいくのは年齢を重ねた世代であり、日本とは逆に自分の命を捧げて、若い人々の命を救おうとします。大人たちが後に続く世代に地球の未来を託し、自ら死を選ぶというストーリーになっている。この点が、日本が大戦末期にやった特攻とは決定的に異なります。オンライン家庭教師をしていて生徒と少し映画の話していても盛り上がります。

たとえ映画の中の話とはいえ、国民性は出るものです。日本映画では、上の世代が命を賭して若い世代を守るというシチュエーションなど、滅多に出てきません。任侠映画などでは、若者が命をかけて親分を守るシーンが多く見られます。敵討ちにしても、主君の敵、親の敵ばかりです。実際、日本の仇討ちには掟がありました。親や目上の人間の仇討ちはよくても、目下の者や子どもの仇討ちは許されなかったのです。

戦時中の日本には、上の世代が命をかけて下の世代をよりよく生かそうという発想がありませんでした。国民を戦争に駆り立てながら、指導者たちが用いる言葉はなぜか不明瞭で、作戦にも筋が通っていない。少しでも犠牲を少なくするような努力はされず、その状態が終戦工作まで続きました。

日本の歴史を振り返ってみれば、避けようと思えば避けられた不幸は、日本人特有の曖味さ、論理ではなく情緒に頼るキャラクターによってもたらされたと思われてなりません。世界に生じるほとんどの悪は、言語運用の間違いから生じている可能性があります。

 

前回の記事はコチラ→【人の死の定義とは?

 

死ぬというのはどういうことか。「語るオンライン家庭教師」

死とは何か。どの時点で人は死んだと見なすべきなのか。フィジカルに見れば、死はある長さをもった過渡的な現象です。生命の機能が完全に停止するのは、すべての細胞が死んだとき。これを細胞死と言います。つまり生物学的な死が細胞死です。

 

オンライン家庭教師 生物学 細胞死

通常は心臓の停止をもって死亡と判断するのではありませんか。

それは心臓死です。われわれは社会を形成する上で、過渡的な現象である死にどこかで線を引かなければなりません。そこで、心臓停止をもって死と決めた。心臓死と細胞死を分けたのです。

よくお葬式の前に遺体のヒゲを刺ったりするのは、心臓が止まってからも、一部の細胞が生き続けている証拠です。また、人間は心臓が止まってからも蘇生することがあります。ある知人が先年、心臓発作を起こして、一時的に心停止の状態になりました。幸い応急処置がよかったのか、二時間後には心臓が動き出し、回復することができました。現在では心臓ペースメーカーを使用していますが、ぴんぴんしています。心臓は一度止まってからも動き出すことはあるということです。

このように考えていくと、死を定義するためには、ポイント・オブ・ノーリターンはいつか、どの時点で人間は蘇生できなくなるのかを見極める必要があることがわかってくるでしょう。言い換えれば、あるポイントを過ぎれば死が不可逆になるとしたら、そのポイントを死と定義するのが妥当なのです。

受験勉強とは関係ないかもしれませんが、オンライン家庭教師である私はこういった疑問がとても気になります。死とは人間にとって大きなテーマだなと思うのです。

 

オンライン家庭教師 脳死 定義

そこで脳死が出てくるわけですね。

その通りです。よく脳死と植物状態を混同している人がいますが、この二つは根本的に違います。脳死は脳全体の機能が失われた状態で、呼吸や循環機能の調節や意識の伝達など生きていくために必要な働きを司る脳幹も機能しなくなります。そのため、自力で呼吸できず、薬剤や人工呼吸器などによって、しばらくは心臓を動かせますが、およそ一週間で心臓が停止します。脳死になれば死は不可逆で、生き返ることはもうありません。

これに対し、植物状態は、脳幹の機能が残っていて、自力で呼吸できる場合が多く、回復する可能性もあります。

脳死という概念はそう古くありません。なぜ、脳死が問題になったかと言えば、医療技術が進歩したからです。人工呼吸器などが発達し、事故や脳卒中などで脳死になった人の心臓を動かしておくことが可能になりました。と言っても、人工呼吸器を装着していても、やがて心臓は停止してしまう。そうであれば、脳死の間に臓器を摘出して、必要とする他の患者に移植できないかという考え方が医学界から出てきました。

心臓などの臓器移植は心停止まで待っていたら遅すぎる。そこで一五歳以上でドナーになる意思を表示している人であれば、脳死を死と認めるという臓器移植法が一九九七年に施行されたわけです。

ここで考えなくてはならのは、より多くの人間が幸福になるための結論をどうやって導くかです。すでに述べてきたように脳死は不可逆的です。脳死状態になった人が回復することは決してない。また、日本の脳死判定は非常に厳格で、二人以上の医師が六時間おいて二回判定します。日本の病院で脳死と判断されたら、一〇〇%脳死だと見ていいと思います。

本来、人の死のような大切な問題にグレーゾーンがあってはなりません。脳死になった人の臓器を難病に苦しんでいる人に移植し、役立てることができるのならば、社会としてきちんと脳死は死と決めるべきでしょう。本人に臓器移植の意思があるかどうかを条件にするのではなく、法律ですべての脳死を死と定め、最大多数の最大幸福を追求した方がいいのです。

社会のルールは論理的に作っていかなくてはいけません。ここが勉強する意味、理解力・想像力・表現力と大いに関係してくるのですが、脳死問題を考える上では、まず脳死の不可逆性について理解すること。脳死を死と認めることで社会に還元される利益を想像し、情緒を差し挟まずに論理的に結論を表現していく必要があります。

脳死と植物状態を混同する、などというのは論外です。あやふやな知識のまま、議論をしても、結論は曖昧になるだけで、そういう人とは議論する価値もない。しっかりと理解していて、なおかつ独自の判断によって「脳死は死と認めない」をもつ人とは、議論する価値があります。

勉強して、広い知識を得て、それらを自分の中で消化できる能力を身につけた人でなければ、きちんとした意見は出せません。きちんとした意見のぶつかり合いの中でこそ、社会をよりよくしていくような選択が可能になっていくのです。

おそらく、身内が脳死と判断された人は、医師から死亡宣告を受けても納得がいかないと思います。たとえ、あと一週間で心臓が止まると言われても、「じゃあ一週間生きさせてくれ」と言いたくなる気持ちはわかります。

しかし、患者の家族の感情と法律や社会通念は明確に分ける必要があります。社会としては脳死イコール死と線を引き、個々の感情には現場で対処すればいいのです。どうしても家族が移植を望まないのであれば、移植するわけにはいかないでしょう。ただし、脳死の時点で死亡という判断だけはすべきです。「死んだと思いたくない」いという情緒を、社会的な通念としての死の判定に持ち込んではならないのです。

 

オンライン家庭教師 論理 GM作物

情緒と論理のどちらをとるかというテーマは、最近の日本人の関心事のようです。

社会のルールを決めるときは、情緒を差し挟むのではなく、論理にのっとって結論を引き出していくべきです。合理的に隙がないように考え、社会ににとってよりよい結論は何かを視野に入れて、明確に答えを出さなければなりません。現場で、それぞれの問題に対処するとき、情緒を差し挟めばいいのです。

この「よりよい」という点が重要で、ベストな選択というのはなかなか難しい。だけど、論理に立てば、なるべくよい解を得ることはできる。ベストな解答でなくても、よりよい答えを導き出せる可能性が増します。オンライン家庭教師で働く講師としてより良い回答に生徒を導くことも大切なことだと考えています。

論理ではなく、情緒が人々を支配するようになると、世の中は混乱します。たとえば、遺伝子組み換え(GM)作物について漠然としか知らないのに、「なんと体に悪そうな気がする」と避けたがる消費者はかなりいます。

GM技術には農薬の使用を減らせる、労働・生産コストが削減されるといったメリットもある。そういうメリットと本当に環境に影響はないのかといったことを考えて、GM作物を使った食品は買わないと言うならまだしも、大部分の消費者はただ風説に惑わされ、マスコミの論調に振り回されているだけのようです。

ここでも問われるのは、理解力・想像力・表現力です。GM技術とは一体何であるかをできるだけ正確に理解し、農業の実態や世界の食糧問題、人類の将来、生命倫理の問題にも思いを馳せて、この技術を使うべきか、使わないでおくべきかを考え、意見を述べる。

さまざまな人が理解力・想像力・表現力という思考の回路を通じて出された意見を戦わせなければ、次世代のためのよりよい選択は残せません。大切なことは、明晰に、論理的に、分析的に考えることであって、情緒に流されることではないのです。

 

前回の記事はコチラ→【生命・言語の仕組みを知るには源まで遡り考えなければならない

 

生命・言語の仕組みを知る”オンライン家庭教師”

オンライン家庭教師 言語 仕組み

生命、言語の仕組みを知ろうと思ったら、知識に頼るだけではなく物事の源まで遡って考えることが大事なのですね。

いろいろな問題を考え、議論しようと思ったら、どうしても起源に遡っていかざるをえません。サルは言葉をしゃべるかなんていうことは、面白おかしく話題にするだけでもいいのですけど、本当はどうかなと考え始めると、そもそも言語とは何か、ヒトはなぜ言葉をしゃべれるようになったのかと、起源まで突き詰めていかなが出てきません。

生きていく上で知識は多い方がいいに決まっています。ネアンデルタール人はどんなな人たちで、脳の大きさはどのくらいで、いつ頃滅びてきったのかは、知らないよりは知っていた方がいいのです。その方が問題に対するもっともらしい仮説にたどり着きやすいし、知識がないと面白いアイデアも生まれません。

だけど、本当に世界の仕組みを知ろうと思ったら、細かい知識や計算でつじつまを合わせても答えは出てこなかったりします。

たとえば、物理学の世界では、相対性理論と量子論を統一させた理論を作ろうという模索が近年ずっと続いており、多くの学者がこの研究に取り組んでいます。だけど、まだ答えが見つかっていません。一般相対性理論では量子の計算がどうしてもできず、量子力学では時間と空間の計算ができないからです。

これも非常に興味深いテーマです。しかし、どうも研究の大枠が違うのではないという気がしてならないのです。われわれは、もしかしてとても大きな解釈の間違いをしているのかもしれない。相対性理論と量子論の統一はつじつま合わせでできるものではなく、もっととんでもない仮説が先に出てくる必要性があるのではないでしょうか。

天動説から地動説に移行したときがやはりそうでした。現代では天動説なんて信じれる人はいないけれども、昔は天動説が当たり前でした。ところが、地球が真ん中にあって太陽や他の星がその周りを回っていると考えると、どうしても説明できない天体の動きが出てくる。火星が逆行するなんてことが起きてしまうわけです。

昔の天文学者はこの謎をなんとか説明しようと、苦肉の策をめぐらしました。当時の理論を表面的に操作し、小手先のつじつま合わせで惑星の逆行を解釈しようとしたのです。

でも、それがどうだったでしょうか。地球の周りを星が回っているのではなく、太陽の周りを地球が回っているのだと説明するだけで、スパッと答えが出てしまいました。ときどき、火星が逆行するように地球から見えるのは、公転の軌道の大きさが違うからです。地球は一年かけて公転しますが、火星はその外側の軌道をおよそ一年かけて回っている。だから、地球が火星を追い抜くとき、火星は逆行しているように見える。それだけの話でした。

オンライン家庭教師をしていてこういった生徒の疑問にもしっかり答えるようにしなければいけません。

 

オンライン家庭教師 世界 仕組み

世の中の仕組みを知る楽しさはわかりました。勉強するもう一つの意味、世界をよりよくすることについて具体的に教えてください。

たとえば、脳死の問題があります。脳死は「人の死」でしょうか?

 

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日本でも脳死は人の死と認められているのではありませんか。

そうでもありません。日本の臓器移植法では、脳死状態になった人が臓器を提供する意思を示しており、しかも家族が臓器の摘出に同意するか、または家族がいない場合に限って脳死を人の死と認めています。脳死そのものを死と認めるかどうてはグレーなままです。死の定義という重大な問題を日本人は曖味に放置したままだとも言えます。

 

前回の記事はコチラ→【猿は人の言語を話せるのか?

 

サルは言葉をしゃべれるでしょうか?

では、続いてもう一問出してみましょう。サルは言葉をしゃべれるでしょうか?

 

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訓練したら、しゃべれるようになるのではありませんか。

オウムや九官鳥みたいに人間の声色が使えるかということとは違います。言語を使えるようになるかということです

 

オンライン家庭教師 人間 言語

それなら無理でしょう。威嚇の手段や警戒の合図、愛情表現などで吠えたり、うなったりはできるとしても、世界の姿を自分の頭の中で構築していく仕組みが言語だとしたら、サルには言語の構造を組み立てていくことはできないと思います。群れの中で身近な物、例えば石を「石(いし)」と呼ぼうという具合に名前をつけていくこともできないでしょう。

確かに言語は、まず自分の存在を意識することから始まります。でも、世界をとらえることは一部のサルには可能です。人間がチンパンジーにバナナを見せて、「ウー」と一回うなってやると、利口なチンパンジーならバナナと「ウー」といううなり声を結びつけて考えるようになります。ゴリラを訓練したら、言葉をしゃべれるようになったとする研究報告もあります。

ただ、ここで問題としているのは、サルが自ら言語を獲得できるようになるかということです。つまり、この質問は、言語はどうやって生まれたのかという命題に行き着くのです。

人類が言語を手に入れたのは、そんなに昔のことではありません。せいぜい五万年ほど前、ちょうどクロマニョン人(新人)が繁栄し始め、ネアンデルタール人(旧人)が消えていった境目の頃と考えられています。

クロマニョン人は言語をもっていました。一方、ネアンデルタール人はクロマニョン人ほど完成された言語をもっていなかったとされています。集団の中で合図を交わす程度のことはできたようですが、この能力はチンパンジーやゴリラなどの類人猿とあまり差がなく、言語と呼べるようなものではありませんでした。

けれども、ネアンデルタール人の化石から脳の大きさを推測してみると、彼らの脳は決して劣っていなかったことがわかっています。容量としてはクロマニョン人より大きいぐらいです。では、なぜ彼らは言語をもてなかったのでしょうか。

 

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骨格上、ネアンデルタール人には、明瞭な発声機能がなかったという話をいたことがあります。

発声の問題はあったにしても、そのことと言語の獲得は別の話でしょう。

もう少し考えてみて下さい。五万ほど年前、地球上に住むクロマニョン人の中で最も知能の高い一人が言葉をしゃべり出し、それが全世界に伝播していくというようなことが果たして起きうるでしょうか。そんなことは不可能ではありませんか。

いつだったか、この問題を考えていて、ふと気付きました。言語は作られたものではない。これは同時多発だ。あるとき、突如として一斉にしゃべりだしたのだと。

今、人類の間で話されている言語を考察してみましょう。言語は地域によって異なり、その民族にとって固有の文化だとされています。単語が違い、文法が違う。では、文法の大元、言語を言語として成り立たせる根本の法則はどうでしょうか。これについては、だいたいとの言語も同じようなものではないかと考えられるのです。

わかりやすく数式で表してみましょう。

1から4までの整数を足すと10になる。これを数式で表現すると、「1+2+3+4=10」となります。「4+3+2+1=10」「1+4+3+2=10」などと数字の順番を入れ替えても、表していることは変わりません。あるいは、「1+(2+3+4)=10」「(1+2)+(3+4)=10」などとカッコを使って表現しても、答えは10と不変です。

実は諸言語の文法にはこのぐらいの差異しかありません。単語の違いを除けば、あとはどの順番で何を話すかぐらいの違いぐらいしか見当たらない。でなければ、ある言語を別の言語に翻訳することなど不可能ということになります。

世界中にある言語の基本法則はどれも同じ。だとすれば、これは人間のだれかが意図的に作り出せるものではありません。名詞などの単語ぐらいは話し合いで決めることができても、さまざまな単語の並べ方、文法を作り出すことはできない。それは1+1=2という法則を人間が作れないのと同じです。
オンライン家庭教師サービスを行っている私も、子供達も、子供達の親もみんなです。

このことはさっき話した生命の誕生の瞬間と似ています。すべてのクロマニョン人は、あるとき同時に言語をしゃべれるようになった。だれかが言語を獲得し、だれかに話し方を教えたのではなく、言語はある瞬間を境にヒトの脳の中に創出された。言語体系が生まれる「型」みたいなものが脳にあり、それがあるときヒトによって発見されて、一斉に動き始めたとしか説明できません。あるいは、感覚的知覚の延長線で、言語が誕生したのではないでしょうか。

ここまで考えると、サルに言葉は話せるかという問いに対する答えははっきりしてきます。クロマニョン人の脳には言語体系の「型」があった。ネアンデルタール人の脳にはそれがなく、その結果、ネアンデルタール人はクロマニョン人に取って代わられた。もちろんサルにもありません。

初めに述べたように、サルには物の区別、物と発声の結びつきぐらいは理解、習得できたとしても、文章を構成できないからです。したがってサルは言語を獲得できない。サルは言葉をしゃべれないという結論にたどり着きます。

このように物事を考えると、いろいろなことがわかりやすくなります。シンクロニシティという言葉を聞いたことがあるでしょう。これもサルの話です。ある海岸で一匹のサルがイモを洗って食べた。海水でイモを洗うと、土が落とせるだけでなく、イモに塩味がついておいしくなる。一匹がそうすると、周りのサルが真似をした。その海岸ではたくさんのサルがイモを海水で洗って食べるようになった。

ところが、ここから不思議なことが起きていきます。サルが海水でイモを洗って食べる。これとまったく同じ現象が世界各地で同時に観察されるようになるのです。もちろん、サル同士だから情報交換はできないし、海水でイモを洗うという知恵が、海を隔てた地域までそう簡単に伝播するわけがありません。だれが教えたわけでもなく、伝えたわけでもない。にもかかわらず、世界中のサルが、同時に海水でイモを洗い始める。これがシンクロニシティです。

人間が言語を取得した過程には、シンクロニシティが作用したという気がしてなりません。

 

前回の記事はコチラ→【雰囲気に任せて結論を急ぐべきではない

 

雰囲気に任せて結論を導き出すべきではない

オンライン家庭教師 問題 宇宙

オンライン家庭教師 問題 宇宙

何となく雰囲気に任せて安易な結論を導き出すべきではない、と。

実を言うと、この問題は、「フェルミ・パラドックス」という名前を与えられて、専門の科学者たちによって論じられています。

現在のところ、宇宙が誕生したのは今から一三七億年ほど前と推定されています。その中に太陽系が生まれたのが、およそ四六億年前。そして生命が生まれたのは、およそ三九億年前。原核生命から真核生命、カンブリア紀の大爆発を経て生命は多様化し、一世を風靡した恐竜たちが滅んだ後は哺乳類がそのポジションを奪い、ネアンデルタール人からクロマニョン人に移行する形で、われわれの祖先が地球にはびこるようになりました。

ネアンデルタール人からクロマニョン人への移行は、およそ五万年前のこと。その頃、書き言葉を中心とした文化の発芽のような現象が生じました。クロマニョン人はネアンデルタール人から直接に進化したものではなく、交配は不可能。セックスしても子どもは生まれません。

ホモ・サピエンスと言われるわれわれの祖先が誕生して、まだ一七万年ばかりしかたっていないのです。宇宙の年齢を一年にたとえれば、人類は誕生して一〇分もたっていないことになります。

もし、われわれに先んじること一〇分で、知的生命がほかの天体に誕生していたとしたらどうでしょう。

われわれが過去一〇〇年間で成し遂げた文明の進歩と、その加速度的な速度を見るまでもなく、あと一〇〇年、二〇〇年で一体どれほど文明が進むか予測もつきません。三〇万年先、四〇万年先となれば、なおさらです。光速より早く移動できたり、宇宙全域と通信できたりする方法を開発している可能性は十分にあります。

もちろんオンライン教師でそのようなテーマを勉強するわけではありませんが少しだけ好奇心を持って耳を傾けて見てほしいのです。

 

オンライン家庭教師 エイリアン

にもかかわらず、われわれは宇宙人のいる痕跡をまったく発見することができません。

宇宙に生命が満ちているとすれば、人間より先んじること一億年、一億年という知的生命体がいても当然であり、であれば移動や通信の手段を開発しているに決まっている。しかしわれわれは衆人環視のもとで宇宙人の来訪を歓迎したこともなければ、メッセージを受けたこともない。さて、この矛盾をどう考えるべきか、というのが、「フ・パラドックス」です。

この矛盾に関しては、さまざまな考え方があります。まず、「エイリアン」は既に地球に来ているというもの。

もしそうだとしたら、公の場での接触がなされていない理由として、次の点が考えられます。

 

……地球のDNAは、エイリアンによって実験的に移植されたものであり、彼らは自分たちの実験結果に精確さを期すために、徹底的な不干渉を決め込んでいる。

進化の模様をこっそり観察しているのであれば、彼らは絶対に姿を見せるわけにはいかなくなります。干渉したとたん、実験データに影響を与えてしまうからです。

 

……あるいはエイリアンは宇宙にいるけれど、時間的な制限のために地球に来ることができないでいる。

これは実に一般的な理由です。仮に光速で移動できたとしても、地球からもっとも近い恒星に行くまで五年もかかってしまうようでは、そもそも旅をしようという気が起きないでしょう。

 

……むこうはとっくに連絡をよこしているけれど、人間はそれに気付かないでいる。

宇宙からのメッセージを受けて、エイリアンとの接触を試みるという展開は、『コンタクト』という映画で描かれていますが、実際には、共通の言語の可能性が薄いという点で、困難があります。映画の中では通信に数学が使われていましたが、人間が使用している数学も一種の言語であり、共通である保証はありません。

 

……地球外知的生命は存在しない。

これは、矛盾に対するさまざまな考え方の真打ちです。ほくは、この可能性は捨てきれないと思っています。「UFOがいるかどうか」という質問を論理的にたどれば、必ず「生命はいかにして誕生したか」という問題に行き着きます。

大事なことは、普通の人が普通に流されるお決まりのコースから一度外れてみて、自分の頭で考えてみることです。生命誕生に関しては不思議なことがいっぱいある。不思議を解きほぐしていく作業はとても楽しいものです。そして思考する快感を覚えれば、次に何か別の問題に突き当たったときにも、人から与えられただけの知識に頼るのではなく、自分で深く思考する習慣がつきます。

 

オンライン家庭教師 子供 質問

子どもの無邪気な質間に対して、親としてどう答えるかということとも関係がありそうです。

子どもは、ときどき本当に変な質問をするものです。自分が出会ったあらゆる物事に対して、不思議だなあという驚きの気持ちを抱き、興味をもちます。わが家の娘も一歳かニ歳ぐらいから「あれはなーに、これはなーに」と訊くようになりました。空はどうして青いの?」「月はどうして丸いの?」「タンポポはどうして黄色いの?」とか、物事の存在自体を真正面から訊いてきました。

そこでまじめに説明してもわかるわけがないし、いちいちまとわりついて騒がれると、親としてはつい面倒くさくなって、「うるさい! そんなことはどうでもいいの!」と質問をさえぎりたくなります。
オンライン家庭教師をしていてもやっぱりそんな気分にはなります。

物の存在自体を問うような質問には答えられません。答えられなければ、答えられないなりに、「そういうふうになっている」と言う方が姿勢としては正しいでしょう。だけど、「なぜ」「どうして」「どんなふうに」と訊いてくる質問には、なるべく正確に答えるべきです。必ずしも正しい答えである必要はありませんが、適当なおとぎ話のようなものを作って答えに代えてはけません。

 

前回の記事はコチラ→【UFOは実在するのか?

 

UFOは存在するかどうかを考える好奇心

オンライン家庭教師 UFO

世界の仕組みを知る面白さを伝えるために、一つ質問を出しましょう。テーマは「UFOは存在するかどうか」です。正確に言えば、UFOとは「未確認飛行物体」のことですが、ここではETC(地球外文明)が飛行物体に乗って、ほかの惑星から来ているかどうかという問題に絞りましょう。さて、どう思いますか?

 

オンライン家庭教師 UFO

これだけ宇宙は広大なのだから、どこかの惑星に地球外生命がいたとしても、不思議ではないし、UFOは存在するかもしれないと思ってしまいます。

じゃあ地球上の生命はどのようにして誕生したのでしょうか?

 

オンライン家庭教師 生命 誕生

水があって空気があって、あるときそこに偶然が作用して物質が生命体を成し、自らを複製させ始めたのが生命の誕生ではないでしょうか。

その偶然は、今はもう起こらないのでしょうか。生命誕生は約三九億年前と言われています。

命は海から偶然生まれたのだとする説も確かにあります。だけど、偶然、生命が誕生したのだとしたら、もう一度偶然から生命が生まれてもおかしくないはずです。でも、現実にはそういうことは起きていない。少なくとも起きたという痕跡は見つかっていません。

実験室の中でも生命は作り出されていません。一九五三年、スタンリー・ミラーは、水、メタン、アンモニアの混合物が入った容器に放電するという実験を行いました。その結果、容器の中には有機化合物が生じた。

つまり、地球が冷えた後に、アミノ酸ができる可能性は高い。しかし、この点を指して、実験室の中で生命を作り出すことに成功したとはまったく言えません。アミノ酸が存在することと、それが意味のある配列をして生命のもとになるたんぱく質となることは、別次元の問題です。
こんなに難しいことは受験では使いませんし、オンライン家庭教師として子供にこんなことを教えることはありません。

しかしUFOが存在するかどうかという議論は、子どもたちの間で交わされるようなたあいないやりとりです。テレビ番組なんかだとUFOを撮ったとかいう写真が引っ張り出されてきて、その真偽を云々するような不毛な論争に流されてしまいがちでもあります。

しかし、このテーマを真剣に考えようとすれば、地球外の天体に知的生命体がいるかどうか、生命とは何か、地球ではなぜ生命が誕生したのかという具合に問いが連続していきます。そして多くの人がはまりがちな思考の落とし穴が見えてくるのです。

原始の地球の海、今よりもっと濃度が高かった海を有機分子の濃縮スープととらえ、これがかくはんされるうちにアミノ酸が仲良く手をつないで、生命の素であるたんぱく質が合成され、それらはやがて自己複製を始めた――。これは旧ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた「コアセルベート説」です。たいていの人は生命の起源を考える際、頭の中でこのイメージを思い浮かべます。そうすると生命誕生は偶然の産物ということになります。

しかし考えてみてほしいのです。生命の素になるたんぱく質は、二〇種類のアミノ酸が数百個並んでできています。きりのいい数字で一〇〇個としても、生命としての意味をもつたんぱく質ができる確率は、二〇の一〇〇乗分の一です。分母の二〇の一〇〇乗がどのくらい大きな数字かわかるでしょうか。全宇宙に存在する水素原子が一〇の八〇乗個だと言われていますが、それよりもはるかに大きい。つまり確率としては、全宇宙の範囲で、たった一個の水素原子が当たりクジであるクジを数回続けて引き、その全部に当たるぐらい低いのです。

この確率の低さは、サルにタイプライターを叩かせてシェークスピアの一節とまったく同じ文章ができるかという可能性とよく比較されます。何兆匹ものサルが、何兆年間タイプライターを打ち続けても不可能と言い切れる確率。生命誕生はこれぐらい低い確率で起きたのです。

こんなことが偶然起きるとは考えられません。偶然が否定されると、すぐに「神」を持ち出そうとする人もいますが、それでは議論があまりにも幼稚になります。

じゃあ、どんなメカニズムで生命が誕生したのかと訊かれると、それはなかなか難しい。答えることはできません。ただし、UFOはいるのかと訪ねられて、「空を見上げたら、あんなに星がたくさんあるのだから、たぶんどこかにきっと宇宙人がいるだろう」という論理をたどるべきではないと言うことはできます。

 

前回の記事はコチラ→【「理解力」「想像力」「表現力」を学ぶ

 

この授業でも、「理解力」「想像力」「表現力」を学んだ

オンライン家庭教師 想像力

オンライン家庭教師 想像力

この授業でも、「理解力」「想像力」「表現力」を学んだということですね。

意味のないことをああでもないこうでもないと考えていてもしょうがない。新しいテーマをなるべく論理的に分析して、意味のある結論を導き出し、独自の言語運用によって、表現しなければならない。永井先生の原書講読をきっかけにして、読んで「理解」することと、書いて「表現」することの、表裏一体を学びました。

海面に浮かぶだけの浮き袋ではなく、そのほとんどを海面下に沈めている氷山のようであるためには、より論理的に、より明晰に考えなければならないのです。そのための思考力を養う方法は、先にも書いた通り、沢田先生の論理実証主義哲学によって、示されました。

慶應の文学部時代、現代フランス文学の白井浩司先生や、言語学の鈴木孝夫先生など、さまざまな優れた先生との出会いがありましたが、沢田先生と永井先生は特に印象に残っています。大学時代に学んだことが、現在の仕事にどれほど役立っているか計り知れません。

 

オンライン家庭教師 受験 大学

勉強は役に立っているということですね。

大学に入るまでに、学ぶ基本能力を身につけ、大学に入ってからはもっと広く学ぶというのが正しい勉強の仕方であって、そうやって勉強したものは必ず社会に出てからも役に立ちます。

ところが、勉強する意味を考えずに、ただ受験勉強に追われていると、大学に入学した途端、目標はクリアされたことになる。もったいないだけでなく、これではちゃんとした教養人、知識人が育っていきません。日本にはたくさんの大卒者がいるのに知識人が少ないのは、多くの人が大学に入ってから勉強しなくなるからでしょう。学べるチャンスを手にいれ、勉強する能力も余力もある人たちが勉強をストップさせてしまうのだから、知識人が育っていくはずがない。

また、そういう人は自分の子どもに受験勉強はさせても、勉強する意味までは教えようとしません。「学校の勉強なんて社会に出ても何の役にも立たない」と、自分の子どもに対しても必ず言うようになるでしょう。
私が見ていたオンライン家庭教師の生徒も同じようなことを言ったことがあります。

日本はもう少し本物の教養人、知識人を増やし、その知恵を結集することを考える必要があると思います。でないと、いろいろな問題への解決策が出てこない。少なくとも政治家には世界の仕組みを知り、人類の進歩に貢献したいという意欲ぐらいはもってほしいですし、いきなり国際貢献につながるかどうかは別にしても、日本人が自分たちの共同体をうまく変えてみせ、社会問題に対する処方箋を提示する必要はある。

日本の若い世代の知恵を結集させ、世界に対して何か新しいコンセプトを提示する。そういうものを世界に示すことができれば、ひいては世界をよりよくすることにつながっていきます。
まずは日本の中でオンライン家庭教師を通じてそれを強くして行きたいですね。

 

オンライン家庭教師 勉強 社会

「勉強するのは社会をよくするため」ということにつながっていくわけですね。

しっかり勉強しておけば、しっかりした判断ができる人間になります。もちろん人間だから失敗することはあるし、いくら学問を積んでも誤った選択を犯すこともあります。それでも理解力・想像力・表現力の訓練を重ねることで、何かのときによりよい決定が下せる可能性が高くなります。
だから、もし子どもに「なぜ勉強をしなければいけないの?」と訊かれたら、親は「社会をよりよくするためだ」と自信をもって答えなければいけません。われわれは共同体に属して暮らしています。共同体のメンバー一人一人の学力が高まれば、ある選択をする際に、できるだけ共同体の幸福度が高まるような判断ができるのです。

 

前回の記事はコチラ→【大学で勉強した事

 

大学ではどんなことを勉強したのですか?オンライン家庭教師がない時代に

オンライン家庭教師 大学

オンライン家庭教師 大学

大学ではどんなことを勉強したのですか。

慶應義塾大学の文学部で仏文学を専攻したのですが、大学に入ってからは浪人中よりもっと勉強しました。なにしろ高校時代、ぜんぜん勉強しなかったものですから、自分は三年間何をやっていたのだろうとすごく後悔したのです。

ところが周囲を見回すと、どうも雰囲気が違う。作家志望で文学部に入学するような人間はごく稀のようでした。多くの学生は特に目標もなく、ただ受かったからという理由で文学部に入ってきていた。彼らは大学入学がゴールであって、勉強はもうおしまい。受験勉強であれだけ理解力・想像力・表現力を鍛え、まだまだ学ぶべきことはたくさんあるのに、いざ大学生活がスタートするとまったく勉強しなくなります。なんてもったいないことだろうと思いました。

大学時代は興味のある授業には何でも出席しました。いい成績での卒業が目的ではなく、すべては作家になるためのトレーニングでした。とりわけ哲学には興味をおぼえたので、沢田充茂先生の科学哲学のゼミに入りました。

科学哲学は科学的手法を応用した論理実証主義で、カントの時代には、「ここからは神の領域だからわからない」と言われていたところまで踏み込んで、現代社会における人間の存在を深く理解しようとする学問です。学ぶ上では物理や進化論とか分子生物学、遺伝子学などさまざまな生命科学、場の理論や複雑系など先端科学についての理解が必要となります。

たとえばカントは、人間の認識の中にある「アプリオリ」なもの(生まれたときに既にもっていたもの)は、どのように成立したかと考えました。しかし、カントの生きた一八世紀には、このような問題は神とかかわるものであり、神は人間の経験を超えた存在である以上、これを論じることはできないと、判断を保留したのです。判断を中止することを、哲学用語では「エポケー」といいます。

しかし、時代は進み、科学文明が発達すると、かつては神の領域にあったものに対して、光が当たり始めます。人間の認識の中にある「アプリオリ」なものの形成が、進化論、遺伝学、分子生物学、動物行動学、量子力学、相対論、言語分析など、科学的な手法によって、ある程度明らかにされてきたのです。ですから、科学を知ることなしに、人間の本性を考えたり、哲学を論じるのは不可能ともいえます。ギリシャ時代から、哲学者はイコール物理学者、数学者でもあったのですから、考えるまでもなくこれは当然のことなのです。
オンライン家庭きょうはもちろん昔の時代にはありませんでしたので今は恵まれている時代と言えます。
 

オンライン家庭教師 哲学

哲学というと、一般的には思想のようなものをイメージするケースが多いように思います。

哲学を理解するためには、科学的な態度が必要であることを、沢田先生のゼミによって学びました。目から鱗が落ちるような新鮮な体験だったのを今でも覚えています。

そもそも仏文学を専攻していたぼくが、卒業するための単位とはまったく関係のな哲学科のゼミに参加したのは、「人間には意志の自由があるのか」という問題に悩でいたからです。考えを推し進めていくと、どうしても「人間には根本的に意志のがない」という結論に行き着いてしまう。ところが、自由があってほしいという願望が邪魔をするのか、この結論がどうも納得できず、ぼくは矛盾に悩みました。

当時の思考を簡単に紹介するとこうなります。たとえば、二〇歳の青年が、人生における重大な選択を行ったとしましょう。どの大学に進むか、専攻は何にするか、いま付き合っている彼女と結婚するかしないか、といったようなことです。そのAかBかの選択を左右する要因は、生まれつきの肉体的特徴と、努力によって培われた能力を含めた性格であり、決断を下すときの環境や偶然です。

彼の性格は、生まれもったDNAに二〇歳まで生きてきた経験の総体がプラスされることによって形成されます。経験とは、二〇歳に至るまで無数に行われてきた選択の積み重ねとその結果です。となると、ここから導き出される結論はひとつ、彼が下す選択は彼のもとを離れ、手に負えないものになってしまっている。要するに彼本来の意志を働かせる隙間がない。

二〇歳のときのある決断は、両親や兄弟姉妹、親しい友人たちの助言などを含めた、そのときの環境や、偶発的な事件などによって左右されます。アルベール・カミュの小説『異邦人』の中で、殺人を犯した理由を問われ、主人公のムルソーは「太陽のせい」と、とんちんかんな受け答えをします。このあたりの問答を指して『異邦人』は不条理な小説と呼ばれています。しかし、考えてみれば、じりじりと照りつける強烈な日差しが、銃の引き金を引くきっかけにならないとも限りません。人間を殺す、殺さないの選択には、主体を取り囲む環境が作用する場合があります。

環境というものは自分の意志ではどうにもならない。性格もまた、生まれつきのDNAと環境を含めた経験の蓄積によって形成されます。とすれば、たとえば二〇歳の選択は一九歳までに為された選択の蓄積(努力が報われたか否か)によって左右され、一九歳の選択は一八歳までに為された選択の蓄積によって左右されることになる。可能な限り遡っていくと、生まれる瞬間に行き着く。

出自。これは生まれてくる本人にはどうしようもないことであり、完壁に受け身的です。生まれる本人は、父と母と、彼らを取り巻く環境を選ぶことができない。生まれる月日(星座)も、誕生の瞬間の朝夕も、選ぶことができない。ただ、受け身的に押し出されてくるのです。生まれるという行為に自分の意志を働かすことができない以上、人間はその後も意志の自由を失ったままの、受け身的な存在を貫くことになてしまいます。

つまり人間は、根本的な意志の自由をもたない。少なくとも、自由意志を発揮できる範囲は相当に小さく限られている。放っておけばペシミズムに陥らざるをえないこの結論を、ポジティブな生き方に変える方法は何だろうかと考えました。「なんだ、つまんない。意志の自由がないのなら、何をやっても同じじゃん」と、ふて腐れることなく、前向きに生きていく方法が必ずあるはずです。

そこでぼくは、あえてこれに闘いを挑むことにしました。

いかなるシチュエーションにおいても自我をきちんともち、自分の意志を発揮できる瞬間が来たら逃さず、これを最大限利用しようと決めました。日本人は特に、自我を殺して共同体がもつ雰囲気に合わせ、無言の圧力に負けて流されがちです。意志の自由を働かせるチャンスが極めて小さいと意識していれば、そんなにもったいないことはできないはずです。わずかな隙間に楔を打ち込み、腕力で広げて、自分でしかなしえない意志の痕跡を注入しようとするはずです。不合理や曖味さに身を任せていたら、チャンスは失われるばかり。

大学の頃にふとそんなことを思いつきましたが、生きる態度としては今も変わっていません。むしろ、小説を書いて表現することによって、先鋭化したように思えます。

 

オンライン家庭教師 文学

当のフランス文学についての勉強の方は。

当時の慶應の仏文には、永井旦先生のフランス語の原書講読のクラスがあり、大変ためになる授業でした。

永井先生がテキストとして使ったのは、ジャン・ポール・サルトルの『家の馬鹿息子―ギュスターヴ・フローベル論』です。これを毎週少しずつ読んでいく。一つの単語、一行の文の向こう側でサルトルが何を考え、なぜ、その言葉を選んだのかを徹底み込むような授業で、一年かけて四〇ページぐらいしか進みませんでした。

最初の授業を受けたときの衝撃は今でもはっきりと覚えています。たっぶり九〇分かけて進んだのは、たった一六行。しかし、フローベルが生き、小説を書いた当時の時代背景、ブルジョア家庭の憂鬱から交友関係に至るまで、いかにして名作『ボヴァー夫人』が誕生したか、サルトルの分析を事細かく掘り起こしていく作業が展開されたのです。

書かれた言葉を手がかりにして、サルトルの脳内で行われた思考活動を読み取っていくのですから、それはそれはスリリングで、ぼくは先生の言葉を一言一句聴き漏らすまいと耳を傾け、猛烈なスピードでノートをとりました。

サルトルの超緻密な思考力に触れて、イメージしたのは氷山でした。表現された言葉の裏には途方もない量の思考が埋もれていて、理解するということは、水面下にあって目に見えない膨大な量の氷に手を伸ばし、触れることなのではないかと、メタファーとして氷山を思い浮かべていたのです。

そして、海の下に沈む膨大な思考を類推し、理解することが「読む」という行為であるとするなら、「書く」という行為はその逆でなければならないと考えました。物事をなるべくクリアに考えて氷山全体を大きくすれば、自然に海の上に氷は顔を出す。それがつまり表現ではないのかと。

自分の意見をもたなかったり、ものごとを曖味に考えていたりしたら、言葉は内部からの自然な働きかけによって浮かび上がってこないはずです。浮上したとしてもちっぽけなものになってしまう。海面下に中身が何もなければ、氷山というよりただの浮き袋です。

 

前回の記事はコチラ→【受験に合格しなければならない理由・勉強する意味とは?

 

親はわが子の成績アップや受験合格には熱心でも、勉強する意味まではわかっていない

オンライン家庭教師 勉強する意味

オンライン家庭教師 勉強する意味

日本では親はわが子の成績アップや受験合格には熱心でも、勉強する意味まではわかっていない、だからなぜ勉強するのかを子どもたちに教えられないといったことはないでしょうか。

しかし、小学生や中学生の子どもをもつ親が、いくらわが子に「成績を上げろ」「受験に合格しろ」と言っても、子どもには勉強する意味がわかりません。意味がわからないまま机に向かっても成績は上がらないし、結局のところ受験勉強は身につきません。

むしろ、勉強の成果が表れ、本当に勝負が決まるのは成人してからなのです。「そのために勉強は必要だよ」と論す方がよほど伝わりやすいのではないでしょうか。

ただし、勉強する、しないというのは、一種の能力にかかわってきます。塾講師や家庭教師をやってきた経験から言わせてもらえば、勉強する子はするし、しない子はしません。

学生の頃、ある家庭教師先のお母さんに「勉強というものはやればできるんですよね?」と訊かれたことがありました。「結果は努力次第だ」と言ってほしかったようです。

この質問の答えにはとても困りました。勉強はだれでもができるものではなくて、子どもたちはポテンシャルの面においてすごく差があります。同じ中学生でも、連立方程式の概念をいくら説明してものみ込めない子がいるかと思えば、ほんの少しアドバイスをしただけで十分に理解し、かつ独創的な解き方を披露してくれる子もいる。できる子は勉強の仕方を知っています。学び方を自分一人で編み出すセンスがあるのです。

勉強ができるかどうかは野球の上手下手、速く走れるかどうかといった才能と似ていて、努力次第であとどのぐらい伸ばせるかということはあっても、それぞれの子どもの能力には、それぞれ幅のようなものがあります。人には向き不向きがあるため、できない子には「勉強以外で頑張りなさい」と言うしかない場合もあります。

 

オンライン家庭教師 受験戦争

受験戦争を勝ち抜いた人物と言えば、ライブドアの事件で逮捕、起訴された堀江貴文前社長は東大文学部中退でしたし、あの事件にからんだ「メール問題」で、追及する側から一転して議員辞職に追い込まれた民主党の永田寿康元代議士もやはり東大出身でした。

ホリエモンに関しては、あれだけ学問を積める環境にいながら、きちんと勉強してこなかったのはもったいなかったなという気がします。

せっかく東大で文学部に籍を置いたのだから、もっと学ぶ機会を大切にすればよかったのにと思います。彼は、頭はよかったのだろうし、知識を吸収する力はかなりのものだったのでしょう。しかし、教養が足りなかったことが、その言動から見えてしまう。その点が彼の挫折と関係があるように思えてなりません。文学、哲学、歴史などと言うと、何の役にも立たない知識の代表みたいに受け取られがちですが、これらを学ぶことによって発見できる何かはきっとあったはずです。

本物の教養は、知識ではなく、知識を身につけるための悪戦苦闘の中から得られます。そして、努力して身につけた教養は、その人間が困難な状況に陥ったときに、解決策を与えてくれます。そこをショートカットしたのがホリエモンだったのではないかと、残念でなりません。

永田氏については、議員辞職までする必要はなかったと認識しています。しかし、彼も理系出身にしては見通しが甘かった。科学がほかの学問と違うところは、検証可能かどうかということです。理系の勉強をしてきたはずの彼が、メールの真偽を検証できなかったのは不思議だし、やはりもったいなかった。二人とも、困難を克服してよりよく成長してもらいたいですね。

 

オンライン家庭教師 受験勉強

鈴木さん自身は学生時代、どのようにして勉強する意味を考えていたのですか。

ぼくは、高校を卒業するまで意識的に勉強したことはありません。高校時代は文学よりもハードロックに夢中で、両親も「勉強しろ」とは言いませんでした。自分でも勉強する意味は何かなんて考えたことはありませんでした。

学校は県で有数の進学校だったので、友達のほとんどは大学に行くための勉強に熱心でした。そんな中でバンドを組み、卒業したらプロデビューするんだと本気で思っていました。期末試験では追試がしょっちゅうで、模擬試験を受けても偏差値四〇という、友達とは比較にならないぐらいの低い数字をもらっていました。
この時代にオンライン家庭教師があればまた別の結果になっていたかもしれません。

小説家を志すようになったのは一八歳の時でした。高校を卒業した後、一年間、電報配達のアルバイトをしていたのですが、配達の件数があまり多くなかったので、とにかく待ち時間がたくさんあったのです。そこで退屈しのぎに太宰治を読むうちに、彼のデカダンで自由な生き方に憧れました。他の文学作品を読んでいくうちに、すっかり小説にとりつかれ、「作家になる」と決めてしまったのです。

まあ、今になって思えば、「素敵な女性たちにモテモテだった太宰のようになりい」というスケベ心が大きく作用したのだろうと分析できます。
それで翌年、東京に出てきて受験勉強を始めました。好きな作家の略歴を見ると、ほとんどの人は大学の文学部出身と出ているので、作家になるためには、文学部に入らなければならないのだと勝手に思い込んでしまったのです。

その思い込みが正しかったかどうかはともかく、目標がはっきりしていたから受験勉強は楽しかった。東京の高田馬場に下宿して、古本屋で安い文庫本を買いあさって手当たり次第に読みました。文学も評論もとにかくなんでも。浪人生活のほとんどは読書三味でした。

確信をもって言えるのですが、本を読むことが飯を食うことと同じようになると、勉強の成績は上がっていきます。国語力が高まれば、英語力も高まるし、外国の文学を理解したいと思えば、そこから世界史の勉強にもつながっていく。それと、学生時代を通じてずっと日記をつけました。表現力は日記によって培われたと思っていますし、読んで書く、書いて読むという繰り返しが受験勉強では一番ためになりました。

 

前回の記事はコチラ→【「理解力・想像力・表現力」を磨くための勉強