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将来、人間のクローンができる?家庭教師が考えるクローン時代

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ここ最近気がかりなのは、クローン技術についてです。いつか小説に書かなくてはいけないと思って準備しているのですが、この問題をどう取り扱うかは相当難しいのです。オンラインで家庭教師を行なっている時代でもクローン技術はまだまだ発展途上。これからのテーマです。

 

オンライン家庭教師 クローン技術 人間

将来、人間のクローンができたらどうなるかといったような話ですか。

ハリウッドのくだらない映画にクローン人間を利用した兵士なんかが出てくるけれど、ああいう映画で間違ったイメージが広まってしまうのは困りものです。クローン技術でわれわれが問われるのは、人間はこの技術とどう向き合うべきか、医療の進歩と倫理観の折り合いをどうつけるのかということです。

日本では二〇〇一年にクローン技術規制法が施行され、クローン人間の誕生につながるヒトクローン胚の研究がすでに禁止されています。しかし、将来もっと技術が進んで、ある人の体細胞から、その人と遺伝的にまったく同じ人間を作るということはありえないでしょうか。

それがたとえば、難病の子どもを救いたいという親の一念からだったとしたら、その行為は生命倫理と社会秩序には反していたとしても、なんとか病気を克服したいという個人の尊厳、子どもを守りたいという親の思いを尊重したことにはならないでしょうか。

クローン人間を作れる時代がいずれやってきます。クローン技術を用いれば、難病の治療法が見つかるかもしれず、その方面の研究はどんどん進んでいくでしょう。にもかかわらず、われわれの社会はクローン技術ときちんと向き合っていません。技術を規制するといっても、現行の法律は肝心な部分があやふやなままで、議論が尽くされているとは到底言えません。

口では生命の尊厳と言い、倫理や社会的秩序が安易に語られますが、巷にはこびっているのは論理ではなく、やはり情緒であり、ムードなのです。是が非でもだ命を救いたいという願望と、さしたる信念もなく雰囲気に流されて持ち出された倫理が正面からぶつかったとき、議論は途端にかみ合わなくなるに違いありません。

 

オンライン家庭教師 日本 論理的思考

論理的思考のなさが社会を混乱に陥れるということですか。

日本人が論理的でないのは、今に始まったことではありません。合理的な判断ができなかったがために、過去にもいくつか悲劇を引き起こしています。

太平洋戦争末期の特攻作戦なんかも不合理の極致でした。国の存亡を考えれば、最も大切にしなくてはいけないのが若者たちなのに、上の世代の人たちが特攻を考え、若者の命を切り捨てていきました。若い世代を生かし、次代を担ってもらおうと願う発想が日本にはありませんでした。次世代への無関心のなせるわざです。

しかも「神風特攻隊」の命名は、鎌倉時代に元冠があった折、風の向きが日本に有利に働き、元に侵攻されずにすんだという「神風」に由来します。名前の付け方からして神頼みの姿勢が見受けられるのは情けない限りです。

ぼくは特攻隊をテーマにした小説にも取り組もうと、特攻の生き残りの人たちにたくさんインタビューしたことがあります。よく特攻隊員は死を覚悟して攻撃命令を待っていたと言われますが、彼らの話を聞けば、本音と建前がいかに違っていたかがわかります。

飛行機で敵艦に体当たりなどという不合理な死に方は、本当はだれ一人望んでいませんでした。明らかに無駄死にですし、特攻隊員として出撃した人たちはその不合理をわかっていながら、命令に従ったのです。

対するアメリカは、合理性と論理性の国です。日本軍の航空兵力に対して新型兵器で対応しました。それがVT(近接)信管です。軍艦から撃つ砲弾の信管にレーダーを組み込み、目標物に命中しなくても、一定の範囲内に目標物が近づけば、起爆する能力をもたせました。

VT信管は日本が特攻作戦を始めた直後に実用化され、特攻機の撃墜にも非常に威力を発揮しました。アメリカ海軍にVT信管を使われたら、特攻の効果は圧倒的に低くなる。特攻が不合理だということぐらい、日本の軍部も気付いていたはずなのです。

実のところ、「神風特別攻撃隊の生みの親」と言われる大西滝治郎海軍中将が最初に特攻を発案したとき、軍内部でも反対する声はありました。しかし、いったん特攻が作戦として採用され、遂行と決まると、だれもが合理的な判断力を失い、反対できない雰囲気ができていきます。そうした集団の雰囲気は末端まで覆い、全員が情緒に包まれたのです。

多くの特攻隊員たちは、この作戦は間違っていると感じつつ、全体が作る雰囲気に取り込まれていったのだと思います。内心では馬鹿馬鹿しいとわかっていながら、いざ「明日の特攻攻撃を希望する者は一歩前へ」と上官に言われれば、場の雰囲気をかぎとって一歩前に出るしかなかった。

ここに特攻の悲劇があり、合理性を失った集団の不幸があります。本人が価値や意味を見出して死ぬならば、まだ救いがある。だけど、無駄死にと知っていながら、命令に従わなくてはならない。二律背反を抱えながらの死はあまりにも悲しいものです。

何人かの優れた特攻隊員は、特攻攻撃に「あえて愚かな戦法に従って犠牲になることで後世の日本に反省をうながす」という意味を見出し、従容として死地に赴きました。特攻隊員の死を無駄にしないためにも、戦後のわれわれには、彼らの声を聞く義務があります。オンライン家庭教師という便利なシステムが生まれるほど成長し平和な今だからこそ声に耳を傾けたいですね。

ただいたずらに、「平和、平和」「戦争反対」と叫ぶことではありません。避けられるべき不幸を生んだシステムが、形を変えて戦後の日本に潜んでいるとしたら、それを炙り出して分析し、変えるべきところを変えていくのが、過去の間違いを反省して克服するということではないでしょうか。

 

オンライン家庭教師 特攻 英雄

特攻を英雄的行動ととらえるのは間違いということですか。

アメリカ映画にはなぜか特攻によく似た作戦のシーンがよく登場します。『インデペンデンス・デイ』では、宇宙人来襲というとんでもない事態が起き、戦闘機で突っ込んでいく人たちが描かれます。人気映画の『アルマゲドン』では、地球に衝突しようとする小惑星に主人公たちが送り込まれ、核爆弾を埋め込もうとする。『ディープ・インパクト』でも、地球に接近する巨大彗星に向かって宇宙飛行士たちが核ミサイルと共に特攻を仕掛けます。

あくまでも映画の話ですが、興味深いのはアメリカ人が若者を犠牲にしないことです。特攻作戦を実行しても、突っ込んでいくのは年齢を重ねた世代であり、日本とは逆に自分の命を捧げて、若い人々の命を救おうとします。大人たちが後に続く世代に地球の未来を託し、自ら死を選ぶというストーリーになっている。この点が、日本が大戦末期にやった特攻とは決定的に異なります。オンライン家庭教師をしていて生徒と少し映画の話していても盛り上がります。

たとえ映画の中の話とはいえ、国民性は出るものです。日本映画では、上の世代が命を賭して若い世代を守るというシチュエーションなど、滅多に出てきません。任侠映画などでは、若者が命をかけて親分を守るシーンが多く見られます。敵討ちにしても、主君の敵、親の敵ばかりです。実際、日本の仇討ちには掟がありました。親や目上の人間の仇討ちはよくても、目下の者や子どもの仇討ちは許されなかったのです。

戦時中の日本には、上の世代が命をかけて下の世代をよりよく生かそうという発想がありませんでした。国民を戦争に駆り立てながら、指導者たちが用いる言葉はなぜか不明瞭で、作戦にも筋が通っていない。少しでも犠牲を少なくするような努力はされず、その状態が終戦工作まで続きました。

日本の歴史を振り返ってみれば、避けようと思えば避けられた不幸は、日本人特有の曖味さ、論理ではなく情緒に頼るキャラクターによってもたらされたと思われてなりません。世界に生じるほとんどの悪は、言語運用の間違いから生じている可能性があります。

 

前回の記事はコチラ→【人の死の定義とは?

 

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